意見を言った人が誰であるかってことに集中しすぎない方が自分にとって良いのではないかと思いました。
例えば「織田信長は実は虚構の人物である」と信じ難いことを
①歴史学者
②近所の子ども
に言われた時に、
①歴史学者→この人が言っているならひょっとして本当かもしれない。
②子ども→何言ってるんだろ(やれやれ)
といったような感想を抱くのは無理もないですし、信ぴょう性を吟味する上で誰が言ったかを判断材料にするのも間違っていないとは思います。
しかし、このような主語を重視する行為を続けていくと予想外の良い意見を無意識に排除して取りこぼしてしまうこと、聞く耳を持たなくなってしまうことが起こりうるのではないでしょうか。
これは広げすぎかもしれませんが、この人は自分よりも知識や思考が勝っている・劣っているといった判断を人に下す傲慢な気質も身につけてしまいそうです…。
教員として生徒の意見を「生徒の」意見だからと言った目で見ることも大切です。これが生徒理解に繋がりますからね。
しかし、同時に自分と平等な一人としての意見という視点でも見ることで、生徒の良い考えを吸収でき、例え良くない考えだとしてもこれを受け流すことをせず、さらに思考が深まるのだと思います。
しかし、実際にはこのような考え方をする人は少ないでしょう。
そこで、話し手の場合は、自分の社会的立場、相手に与える影響力、相手との関係性などをよく考えて発言するべきだと思います。
それらはやはり聞き手の受け取り方に大きく影響を与えるでしょうから、話し手として自分の立場をよく考え、聞き手としてフラットな状態で受け止めることができる人間を目指したいものです。
うーん、とっても難しいですね。ですが教員のあるべき姿だと思うので、頑張って行きたいです。